越前焼の歴史
越前焼は中世の北陸において、加賀、珠洲、狼沢と並ぶ焼きものの主要な窯でした。
越前古窯の中心は東に白山をのぞむ福井県丹生郡織田町と宮崎村で、日本海との間に低い丹生山地があり、その山地の東麓に散在しています。確認されている古窯跡は、平安時代の末から桃山期に至る165基が数えられ、須恵器と併用されていました。鎌倉中期から南北朝が最盛期とされ、「越前窯」の発生は平安末に須恵器にかわる大型の甕、壷、すり鉢などの日常雑器が生産された頃と考えられています。
鎌倉時代には蔵骨壺(遺骨を納める容器)にも使われたと思われる、先端が折れまがった口縁の壷が多く、押印や刻文が施されています。室町時代に入ると鉄分を含む赤土が塗られ、木灰釉を掛けたなで肩の、越前独特の端正な作品が現れました。
室町末期化からは小型の「おはぐろ壷」が見られるようになり、江戸末期まで作られていました。江戸時代になると施釉陶(素地が土で、成形後に素焼きし、釉薬を掛けて焼成したもの)が多くなり、製品の種類が増え、素朴な日用品が作られるようになりました。
現在は陶芸村が建設され、伝統を生かした新しい越前焼も創られるようになりました。
珠洲焼の歴史
日本陶磁の歴史において、珠洲焼が主要なやきものとされるようになったのは最近のことです。無釉でモノクロな肌合いと「タタキ」による成形手法に近いことから主流の須恵器と位置付けられ、鎌倉から室町時代における北陸の地方窯とされていました。
しかし、中野錬二郎氏の研究成果によって、1963年頃から石川県の古窯跡の調査も盛んになり、珠洲が「北陸の古窯」
として重要な焼き物であると認められました。現在の能登半島東北端から、飯田湾を望む珠洲市内あたりが窯場の本拠地と見られ、市内には十数基が発見されて調査されました。珠洲古窯は近世までに廃絶されてしまいましたが、生産の悪さと、燃料の枯渇が原因と考えられています。
越前焼の鑑定
越前焼にもっとも似ているのは常滑焼です。北陸の越前窯は広大な白山山塊の反対側に位置する東海地方の常滑焼に強い影響を受けて生まれたとされているため、越前焼の方が常滑焼に似ていると言えるでしょう。実際に鎌倉時代のこの両者の製品を外形から区別するのは大変難しいです。
越前焼と常滑焼を区別するには、壺や甕の内面の継目を調べることで、鑑定の手がかりが得られます。 成形は輪積み成形で数段を継ぎはいで造られますが、常滑焼は粘土と粘土の継目が粗いのに対し、越前焼は丁寧になでられています。
室町時代になると越前焼は次第に独自の地域性が現れるようになり、口造りも常滑とは違ってきます。常滑は口の折り返しがきつくN字形をしているのに対し、越前は上に折り曲げているだけで、しかも次第に平になっていき、口全体がシンプルに、肩はなで肩になっていきます。室町中期には標準形ができ上がり、江戸期まであまり変化はありません。
越前焼の特徴に「刻文」があり、種類も量も大変多く、越前焼の代表的なイメージとなっています。刻文は壺や甕、すり鉢の内部にヘラ描きされた文様です。初期のころの文様は宗教上の印形の類と推測されていますが、桃山期以降は窯印であると言われています。
越前焼の時代鑑別
鎌倉時代
器種は主に壷、甕、すり鉢の三種が創られていました。壷は生活用具として利用されるほか、埋葬用の蔵骨器も作られ、鉢もその蓋として使用されています。壺の口造りは常滑壺と同様に、先端が折り曲げられて力強い印象ですが、鎌倉末にはやや弱くなります。鉢は口縁端の外側に段ちがいの凹線があり、三角状の付け高台がついています。
鎌倉時代の越前焼は押印の全盛期で、初めは継目を密着させるための単純な格子目のもので実用的に使われていましたが、時代が降るにつれ装飾化してきました。
室町時代
越前焼の特徴が定着し、壺の口造りは折り返しが目立たなくなり平になりました。口径は小さく、肩の下がったなで肩で、端正な姿はおとなしい印象を与えます。すり鉢は平底、内部には細かい櫛目がつきますが、時代が降るにつれて櫛目が増加します。室町中期から後期では壺全体に鉄分の多い赤土が塗られ、器種は薬研、小鉢、小壺など小物が多くなりました。
桃山時代~江戸時代
主に小物が生産され、付近の農民用の雑器として使われました。食器類は殆どありません。この時期からは鉄釉が掛けられ、刷毛塗りされているものが多いです。陶土は他の土地から採取した土が混入され、粒子は細かくなりますが、混ぜ方が粗い場合は亀裂が入ります。
珠洲焼の特徴と時代鑑別
器面いっぱいに入念に打ち込まれた条線状の叩き目や、還元炎燻焼法による灰色の器体は珠洲焼独特のものです。これらの特徴は他の中世古窯にはみられないため、他の窯製品と明確に区別ができますが、稀に他窯の焼け損じた灰色のものが珠洲焼に似て、間違われることがあります。
須恵器と珠洲焼の違い
最も珠洲陶と見間違われやすいものは、同じ叩締め成形と還元炎焼成の須恵器です。
須恵器の器種は多種にわたりますが、珠洲の器種はほとんど大甕、すり鉢、壺の三種に絞られます。須恵器は薄く仕上げられ、洗練されているのに対し、珠洲は素朴でぼってりとした厚みと重みがあります。須恵器は丸底、珠洲は平底も大きな違いです。
珠洲焼の時代鑑別
平安末から鎌倉中期
造りが入念で叩き目も鋭くきめが細かい特徴があります。口造りは大きく口縁部が長い。胴部には継ぎ目の跡が明確に残り、文様は多種で装飾性も豊かです。
鎌倉末期以
造りも叩き目も荒くなります。口造りは小さくすぼまってきて、口縁部は短く玉縁状。器形はなで肩のものが多く、きめの荒い陶土です。
おはぐろ壺の贋物
越前焼では「おはぐろ壺」が有名です。室町時代から原形があり、桃山から江戸時代に盛んに作られました。越前焼研究の第一人者である水野九右衛氏によると、越前では昔からお歯黒の習慣が根強く、他の地方より遅く、昭和の初め頃まで残存していました。この時まで昔の壺も大切に使われ、現在、おはぐろ壺にも骨董的価値が見出されています。
それまでは必要でなくなったおはぐろ壺捨てられていました。
おはぐろ壺は小さくて造り易やすく、現在では古いものの数も少なくなってきたため、贋物も流通しています。人気のある細長く立ち上がった鉄釉のとっくり形の贋物が多いです。
贋物は土肌を見ても一般の人には区別できません。土や焼成は昔のものとほぼ同じように出来ています。
しかし、成形技術には時代性と地域性がはっきりと現れるため、見るポイントは器形と言われています。真贋の違いが一番顕著に表れるのは、口造りと器底、そして耳の付け根です。贋物は弱々しい印象を与えます。また、本物より贋物の方が少し軽い特徴があります。
慣れてくると、技術ではなく、その風貌からも本物であることが分かるようになるとも言われています。
古越前 飾壷
古越前 大壷
中国建窯 天目茶碗
越前 徳利
司辻光男 越前焼 鳥紋 飾壷
越前 茶道具
越前 左近窯 壷
越前 白磁 茶道具
古越前 おはぐろ 耳付 壷
珠洲焼 茶道具