幸野楳嶺 (こうの ばいれい)
江戸時代末期から明治時代初期にかけて活躍した日本画家です。
四条派・円山派の流れを汲んだ写実的な描写が特徴で、特に花鳥画では広く名を知られています。
1844年に京都市下京区新町通四条下ルに生まれます。
1852年に円山派の中島来章(なかじま らいしょう)に師事し、「梅嶺」の画号を与えられます。
1871年(明治4年)には四条派の塩川文隣(しおかわ ぶんりん)に師事し、翌年の1872年(明治5年)、画号を「梅嶺」から「楳嶺」に改めます。
また、日本画家の望月玉泉と京都府画学校を建議し、1880年(明治13年)に学校が建設されると、同校で教員を勤めました。楳嶺は画家としてだけではなく、教育者としての評価も高く、門下の、竹内栖鳳(たけうち せいほう)、菊池芳文(きくち ほうぶん)、谷口香嶠(たにぐち こうきょう)、都路華香(つじ かこう)の四人は「楳嶺四天王」とも言われます。
1882年(明治15年)、著述「百鳥画譜」を第一回内国絵画共進会に出品。絵事著述褒状ならびに絵事功労賞を受章します。一方で京都青年絵画研究会や京都美術協会の設立に尽力するなど、京都美術界の近代化を推進。1893(明治26年)、帝室技芸員に任命されます。
1895年(明治28年)逝去。京都市・妙蓮寺(京都市上京区寺ノ内通堀川西入)に葬られます。
主な作品
「呉服漢織之図」/1881年(明治14年)/京都市美術館蔵
「帝釈試三獣図」/1885年(明治18年)/京都市美術館蔵
「秋日田家図」/明治時代/東京国立博物館蔵
「松下弾琴図」/明治時代/京都国立博物館蔵