京焼・清水焼とは
一般的に「京焼」は桃山末期~江戸末期までに京都市内の窯で造られた焼き物の総称であり、「清水焼(きよみずやき)」は明治~現代までに焼かれたものを指します。
また、京都で焼かれた焼き物、という意味で「京焼」という言葉を使うこともあります。ただし長次郎によって始まった「楽焼」は独立した焼き物とされ、「京焼」には含まれません。
元々「清水焼」は江戸時代に清水寺参道の五条坂一帯で作られていた焼き物の名称です。そもそもは多くの窯元を有する「京焼」の一種でもありましたが、現在ではほとんど「京焼=清水焼」と認識されていることが多く、伝統的工芸品(経済産業大臣・京都府知事指定)としての正式名称でも「京焼・清水焼」と並べて表記されています。
京焼・清水焼の歴史
京都市東山区は京焼発祥の地であると言われ、江戸時代の初期に現れた三条の粟田口は最古の窯と言われています。
寛永年間(1624年~1645年)には清水の清水焼、五条坂の音羽焼、八坂焼、清閑寺焼、御菩薩池焼(みぞろがいけ)などの窯が起こります。
1647年頃、野々村仁清(ののむら にんせい)が仁和寺門前に「御室窯」を開くと、今まで写しが主流であった京焼に、独自の感性を加えた色絵による絵付けが施され、仁清の優美な陶器は京焼・清水焼の歴史に大きな影響を与えました。
続いて仁清に学んだ尾形乾山(おがた けんざん)は兄の尾形光琳(おがた こうりん)と協力して絵付けを行ったり、当時としては珍しい四角皿を製作するなど、独自の意匠を磨き、「乾山焼」として広く知られるようになりました。
その後、江戸後期になり奥田潁川(おくだ えいせん)による磁器制作が始まると、京焼は再び黄金期を迎え、門下には青木木米(あおき もくべい)や仁阿弥道八(にんあみ どうはち)が続き、京焼の多様化が進みました。
京焼・清水焼の特徴
京焼・清水焼には有田焼や備前焼のように決まった様式や技法があるわけではなく、作り手によって様々な意匠や技法が使われています。
陶磁器の歴史が陶工達の個性と活躍によって培われてきた点も、京焼・清水焼の特徴であると言えます。