唐津焼の歴史
古唐津の始まりは文禄の役(1592年~1598年:秀吉の朝鮮出兵)より前の室町末頃から、岸岳の麓の飯洞甕(はんどうがめ)など、複数の窯で焼きもの焼かれていたと考えられています。明確な発祥の記録は無く、陶工は朝鮮との交易の中で移住してきた人々であったとされています。素朴な抽象文や草文が鉄釉で描かれた日常雑器など、素材を活かした趣の作品が多く見られます。
文禄の役の後、朝鮮から来た大勢の陶工達が、現在の唐津焼の南、伊万里市、武雄市、有田市、東松浦郡、佐世保市一帯などに100以上の窯を築いたため、唐津焼は降盛期を迎えました。それぞれの土地ごとに土味が異なり、胎土の違いによって釉薬を工夫し、絵付の創意が行われていました。
現在でも、唐津は製作期、作者の個性、くせ、気品、できばえ等の分類が大変困難とされています。唐津焼は朝鮮からの陶工が制作していたものが多いため、奥高麗と呼ばれる茶碗や、壺、徳利の形や釉法に李朝の特徴が出ています。後に、人気のあった美濃の茶陶の影響を受け、織部風の絵付等、朝鮮の陶工が日本の絵や文様に寄せたものが登場し、古唐津は17世紀前半まで栄えました。
後に、李参平(り さんぺい)一門が磁土を求めて有田川上流に白磁鉱を発見し移住し、唐津焼は有田磁器に押されて次第に衰退しました。わずかに松浦藩の御用窯に「献上唐津」等の様式性のある焼きものだけが残りました。
唐津焼の土の特徴
唐津の土味は多様ですが、あえて共通の特徴を挙げると「砂目でありながら粘りを持ち、野性的である」と言えます。そこに「鉄分の多い褐色の土」もあれば「鉄分が少ない白色や灰色の土」「きめの荒いもの・細かいもの」「砂気の多いもの・少ないもの」等、唐津地方は粘土の種類が豊富です。
唐津焼の古窯址数は美濃に比べてはるかに多く200基以上を数えますが、これは、それぞれの埋蔵量が比較的少なく、土を使い尽くしては次々と新しい土を求めて移動していったことに由来します。
唐津陶は美濃陶の影響を強く受けましたが、同じ材料の釉薬を使用し、同じ構造の窯で焼成しても、焼き上がりがまるで異なっています。その理由は、美濃が鉄分の少ない特定の良土を用いていますが、唐津は鉄分の多いざらついた土を用いているからです。その違いは発色にも表れ、織部の銅釉は深い緑色ですが、唐津陶は青色のものが多いです。
多様な機種と製法を持つメリット
唐津焼では多種な器種と製法もつことで、欠点があり使いにくいとされる土も生かされてきました。
例えば、鉄分が多い土は茶褐色に焼き上がることからあまり好まれませんが、岸岳周辺の諸窯に受け継がれた叩き造りや、三島手唐津の象嵌にはこの鉄分の多い土が使われます。これらの土は耐火度が高く粘りのあるところから叩き壺に向き、酸化炎で赤褐色に呈色するところから、象嵌の盤や皿に生かされています。
唐津陶の主な製作方法
唐津陶の製作特性のひとつは、丸かんなでの削りです。かんな削りの美しさは唐津陶の魅力の一つと言えるでしょう。
唐津の成形法は、「叩き」や「板おこし」のほかは総てろくろ造りで、美濃陶の主な成形方法のひとつとされる角張った型造りはみられません。板おこしは「より紐を輪積にした上でろくろにかけて形を整える」方法で、叩き造りの一種とされています。唐津のろくろは力強く豪快に引き上げられたものが多いですが、高台は総て削り出しで、美濃によくみられる付け高台はありません。
唐津で使用するろくろは朝鮮式の蹴ろくろで足で蹴って回転させます。水びき成形のときは右廻りにまわしますが、削りのときは器物をろくろに逆さにして固定し、反対の右廻りに回転させます。蹴ろくろは左右どちらにも廻すことができ、手ろくろを使用する美濃では、手びき成形も削りも右回転です。
唐津焼の特性
唐津の陶器は美濃とよく似たものが多いと言われますが、唐津陶の器形は丸味を帯びています。織部では型抜き成形によって造られた直線的な稜線(りょうせん)のある向付等が多いですが、唐津にみられません。志野や織部の多くは、釉調がくっきりとした鮮やかな発色をしていますが、唐津陶は同じ成分の釉薬を用いていても、地味でくすんだ発色をしています。美濃では鉄分が少なく白い胎土が用いられ、唐津では鉄分が多く褐色をした胎土が用いられ、その暗色が釉に影響しているためです。
絵付では、志野や織部が瀟洒(しょうしゃ)な感覚で洗練された絵や抽象文等、構成も考えられたものが多く描かれています。
一方、唐津は素朴で筆数も少ない作品が多く、一部には藁(わら)に顔料を浸け、無雑作に描きなぐった作品もみられます。
また、朝鮮半島から渡ってきた陶工伝来の優れた技術によって造られたものは、李朝三島手や高麗茶碗などの朝鮮陶器と見分けるのが難しいものもあります。これらは全盛時代に焼かれた古唐津ですが、原料が異なり、土味に違いがあります。
唐津焼の古窯と意匠
唐津では土の種類や盛衰していった古窯址の数が多いため、唐津陶の種類や作調は大変豊富です。製品とそれを生み出した古窯については、現在までの発掘でも多くのことが分かってきました。
- 「絵唐津」…ほとんどの窯で焼かれていました
- 「斑絵(まだらえ)唐津:釉薬が失透して白濁したもの」「斑唐津」
…藁灰釉が使用されていた岸岳周辺の諸窯 - 「奥高麗」…市ノ瀬高麗神窯、椎ノ峯窯、藤の川内窯、等
- 「彫唐津:茶碗の胴などにヘラで大胆に陰刻線を彫って装飾とする」
…大川原窯、藤の川内、飯洞甕下、飯洞甕上、阿房谷、甕屋ノ谷、等 - 「黒唐津:鉄釉が黒く発色したもので、鉄の含有量少なければ褐色や飴色を呈する」
…藤の川内、飯洞甕下、飯洞甕上、道納屋谷、道園、阿房谷、等 - 「蛇蝎(じゃかつ)唐津:黒唐津の鉄釉の上から更に長石釉を掛けて白濁させたもの」
…猪ノ古場、祥古谷、等 - 叩く技法の壺等…帆柱、岸岳皿屋、道納屋谷、大川原、椎ノ峯、道園、阿房谷、等
伊万里への影響
唐津は朝鮮に近く、また朝鮮から多くの陶工が渡来していたことで、焼きものの技術において朝鮮の影響を受け、早くから施釉陶を焼き始めていました。日本で初めて連房式の登窯が築かれたのも唐津です。
この新式の窯は唐津から美濃に伝わり、久尻、元屋敷の登窯で優れた織部焼が大量に焼かれるようになりました。
伊万里磁器は、1616年に朝鮮から渡来した陶工「李参平」が有田泉山に磁石の鉱床を発見し、白川天狗谷において初めて焼成したのが始まりとされています。李参平も多久高麗谷の窯で唐津焼を焼いていました。磁器の焼成技術が向上し、その使用が一般的となるにつれて、それまで唐津焼を焼いていた窯の多くは次々と磁器窯に転向しました。
初期伊万里の優品を数多く生産していることでよく知られる百間窯では、磁器を焼造する前は、三島手など種々の唐津焼を焼いていました。初期のころの百間窯の陶片と小峠窯出土の陶片は、つくりや絵付が殆ど同じです。
その後、海外に輸出されて世界で有名になる伊万里を生んだのは、唐津焼であったと言えるほど、伊万里の磁器も唐津焼の絶大な影響を受けています。
朝鮮から唐津、唐津から織部そして伊万里。日本の陶磁器発展の背景には唐津焼があってこそと言えるのです。
贋作が多い唐津
唐津焼は贋物が多いことでも知られています。
唐津の特徴とされる「高台脇の土見せ」「三日月(片薄高台)」「高台内のちりめんじわ」などは、真贋鑑定の基準としてはふさわしくありません。真作でも高台裏までの総釉の茶碗は多く、ちりめん皺が出ていないものも多いためです。本物の中では、高台内側のヘラ取りの中心がずれた三日月高台が大変少ないため、贋物にはこれらの条件を備えているものが多いです。
真作はよく焼き上がり、露胎の部分に照りがありできめ細かく見えるものが多く、贋作は暗色のボソボソした土味のものに多いと言われています。
贋作は釉調が比較的派手な斑唐津に一番多く、古い真贋の斑唐津には、白い釉の中に青い斑点が自然に出たものがよくあり、この青い斑点は現在使われている窯では焼いても出ません。そのため贋物には染付に使われるコバルトを入れて焼いていることが多く、コバルトの発色がどのようなものかを知っていれば見分けられます。
斑唐津のぐい吞みに並んで贋作が多いのは絵唐津の茶碗です。真作にも絵唐津の大振りな持茶碗になるサイズのものはごく少なく、ほとんどが小振りのものです。
一方、贋作は抹茶碗のサイズに作られていて、絵付に生気がなく茶溜りがあるようなものは注意です。
絵唐津の贋物の傾向として、絵がかすれているものは殆どが贋物です。古いものの絵はかすれていません。さらに贋物には筆の運びにスピード感がなくぎこちないものが多いことも特徴です。無地の唐津よりも絵唐津の方が値が張るため、この贋作が多く出回っていますが、昔の絵は、真似ようとしても完全は真似できないと言われています。
見分けが一番難しいのは無地唐津で、絵が無いために真贋を見分ける手がかりが少なくなります。奥高麗の茶碗は大変高価で贋物がよく多く、うまく模写しているために注意が必要です。発掘品よりも伝世品の方が価値が高いとされますが、この発掘品を焼き直したものもあり、焼き直すと発掘品の土臭さが消えて伝世品に近くなります。表面の照りを見て判断出来ることがあります。
絵唐津 佐久間勝山 茶碗
十三代 中里太郎右衛門 唐津茶碗
唐津 大四郎窯
絵唐津 西岡小十 小次郎窯 茶碗
西岡小十 絵唐津 湯呑茶碗
十二代 中里太郎右衛門 絵唐津 茶碗
永楽 善五郎妙全 絵唐津
井上東也 絵唐津 茶碗
清水六兵衛 唐津 花瓶
十二代 中里太郎右衛門 唐津 茶碗
唐津 徳沢守俊