野々村仁清(ののむら にんせい)
生没年不詳(江戸前期17世紀後半)。
丹羽国桑田郡野々村(現・京都府南丹市美山町大野)出身。
通称・清右衛門。京焼の名工。
若くして京都の粟田口や瀬戸(愛知県)で修行し陶作を学んだ後、1647年頃に京都洛西の仁和寺の門前に御用窯として「御室窯」(おむろがま)を開きます。
仁清という名前は、仁和寺の「仁」と清右衛門の「清」の字を合わせたもので、自分の作品に名前(印銘)を捺した最初の人でもあります。また、当時困難とされていた赤色の絵付技術を大成させたことでも知られています。
御室窯は仁清窯とも呼ばれ、茶碗をはじめ、茶壺、茶入、香合、水指などの茶陶が御室焼(おむろやき)/仁清焼(にんせいやき)として多く製作され、当時の公家や大名、武家などの人々に広く親しまれました。
唐物や瀬戸の写しに加え、茶匠・金森宗和(かなもり そうわ/1584年~1657年)による指導の元、優れた轆轤(ろくろ)技術による端正な器形、シンプルな絵柄や文様で絵付けされた茶器は「宗和好み」とも呼ばれています。
宗和の没する1657年前後には色絵(上絵付け)の技術が完成され、1660年代~70年代にかけて、当時の画派である狩野派や宗達派の手法や様式を取り入れた梅、芥子(けし)、藤、牡丹、雉子(きじ)などを描いた優美な色絵が施されるようになりました。
仁清の作品の中でも傑作が多いと言われる茶壷には純日本風で華やかな絵付けの特徴がよく表れています。重要文化財に指定されている「色絵月梅図茶壷」(東京国立博物館)や国宝「色絵藤花文茶壷」(MOA美術館)などはその代表作です。
仁清の死後、二代目清右衛門が後継ぎとなるものの、御室窯の勢いは下降していきます。その一方で、仁清に師事した尾形乾山(おがた けんざん/1663年~1743年)、江戸後期の奥田頴川(おくだ えいせん/1753年~1811年)など後世の作家の活躍により、京焼の歴史は現代まで引き継がれています。
野々村仁清の作品
「色絵月梅図茶壷」(東京国立博物館)
「色絵牡丹文水指」(東京国立博物館)
「色絵若松図茶壷」(文化庁)
「色絵藤花文茶壷」(MOA美術館)
「銹絵水仙文茶碗」(京都 天寧寺)
「色絵雌雉香炉」(石川県立美術館) など