亀文堂(きぶんどう)とは?
亀文堂は滋賀県の湖東地方(能登川)で主に鉄瓶を製造していた鉄瓶製造業者です。
1813年、京都に生まれた波多野正平によって創業者されました。
(初代:波多野正平:1813~1892)
波多野正平
波多野正平の家業は醸造業でしたが、15歳の時に弟の秦蔵六と共に、当時鋳金術の名工として知られていた京都の「龍文堂」の四方安之助(安平・1780~1841)に師事しました。蝋型鋳造(ろうがたちゅうぞう)の技術を学び、後に近江(滋賀県)の能登川(現 東近江市)に移り住んで独立し、その工房を「亀文堂」と号しました。
(初代)波多野正平(=(初代)亀文堂正平)は創業当初、主に文人好みの文房具をはじめとして、銅器や鉄瓶製作に尽力しました。
時代の流れにより一般的な家庭でも鉄瓶が使用されるようになった幕末から昭和初期に、蝋型鋳造によって鉄瓶を製作しました。自然、山水をモチーフとした浮彫り模様の鉄瓶が高い評価を受け、亀文堂の鉄瓶は広く知られるようになりました。
さらに技術を発展させ、蝋型鉄瓶の本体や弦、摘みに、銀の象嵌細工を施すなど工夫を重ね、高級鉄瓶としての評価を受けるようにもなりました。明治、大正、昭和の文人達にも好評を博していました。
1892年(明治25年)に初代が亡くなり、三代までは鉄瓶を中心に高級蝋型銅器作品が制作され、昭和初期には大阪にも工場を作り、小物から大型銅器まで高級な銅器を盛んに製造しているほど繁盛していました。昭和20年代に四代目に引き継がれましたが、高級な鉄瓶の需要がなくなってきたことにより、亀文堂は終わりを告げました。
尚、同じ(二代)龍文堂に師事した波多野正平の弟、秦蔵六は、天皇の御璽(ぎょじ)を製作したことでその名をとどろかせています。
(※御璽:天皇が公式に用いる「天皇御璽」の印文を有する天皇の印章。
初代:波多野正平の人物像
波多野正平は快活で小さなことにこだわらない人だったと伝えられています。高尚でみやびな趣を志す文人肌の芸術家で、酒を好んだと言われています。
頼山陽の教えを受け、その子の頼三樹三郎らの勤王の志士との交友があったため、安政の大獄に連座して1年程度幽閉されたことがありました。
元治の兵火で家を失い、近江信楽の代官多羅尾氏を頼って身を寄せ、のちに日野に移り、最後には山水が美しい能登川に居を移しました。
亀文堂(きぶんどう)の現在の評価
湖東地方には波多野正平作の「日本亀文」との銘のある鉄瓶が残っており、現在も美術品として高い評価を受けています。
初代亀文堂の作では、江戸湯島の聖堂の飾りに使用した72個の銅器が有名です。(現在所在不明)
残念ながら現在は途絶えてしまった亀文堂ですが、近年でも鉄瓶、茶釜、火鉢、文房具などは美術品として重宝され、日本だけでなく、中国、台湾など、東アジアの骨董品愛好家の方にも強く支持され、高値で取引されています。