「堺」「茶」といえばみなさんは何を思い浮かべられますか?
茶道・千家の源である千利休は堺の出身です。千利休が生まれた中世の堺は、現在のように大阪湾が埋め立てられてコンビナートや工業団地がひしめくよりも前の景色ですから、海岸線は今よりもっと内側だったと想像できますね。旧堺港の入り口には明治期の灯台が立っていますが、現在は高速道路が何本も走っています。
堺は古代から漁師の集落であり、物々交換の場所でもあり、応仁の乱以降に大きな発展を遂げました。
室町幕府と細川氏が差し向けた遣明船が大内氏の支配する兵庫港への帰港をはばまれて四国沖の航路を取り1469年に初めて堺の港に入りました。
これをきっかけに、堺商人は博多の商人を抑えて対明貿易を独占し、琉球や東南アジア貿易も行って国際港となるに至りました。
鉄砲は1543年に日本にもたらされましたが、堺商人たちはこれを生産して日本の大名たちに大量に販売していました。
大河ドラマでも大名に鉄砲を売りにくる商人のシーンを見ることがありますね。
明との貿易を独占し、軍需産業を抑えたことで堺は巨万の富を得て、商いの町として全国に名をとどろかせたのです。
鉄砲と言えば薩摩や長浜を連想する人も多いと思いますが、堺は鉄砲に欠かせない火薬を一手に握っていたのが強みでした。アジア貿易においてタイで大量の火薬を手に入れていたのです。
中世時代の堺が町の周囲にめぐらせていた濠跡(ほりあと)の発掘調査にて、16世紀から17世紀の層からタイのアユタヤ地方で作られた壺が多数出土しています。1973年以来掘り進められて埋蔵文化財がケースにして2万箱、中世の堺関連で1万箱余りが出土しており、これでもまだ全体の1%と推定されているのです。
出土品のほとんどが陶磁器で、中国の青花や赤絵、安南交趾(こうち:ベトナムの地域)の三彩、遣明貿易や南海貿易での輸入陶器などがあり、備前、唐津、信楽といった和物もあります。
中世・堺の建物、遺物の密度は周辺の遺跡と比べても濃密で一級品が揃っていることからも、大変豊かな町であったことがうかがえます。
軍事物資をどこの大名にいくつ販売するか…といった堺商人の秘密の話は狭い部屋で茶をたてながら行われていたのかもしれませんね。軍事力が大名率いる国の力に直結する時代。誰に天下をにぎらせるか…などといった話もあったのかもしれません。