高村光雲(たかむら こううん)
1852年3月8日(嘉永5年2月18日)-1934年(昭和9年)10月10日(享年82歳)
東京都(江戸下谷(現・台東区))生まれ。
明治・大正時代の日本彫刻界の重鎮。
伝統的な木彫の手法に、西洋の写実をとりいれた清新な作風をひらめき、わが国の近代彫刻の展開に多大な貢献をはたしました。
1863年(文久3年)から仏師の高村東雲の弟子となり、後に東雲の姉(エツ)の養子となって高村姓となります。
明治維新以後は廃仏毀釈運動の影響により仏師としての仕事がなくなりました。象牙彫刻が流行し、木彫も衰えます。それでも光雲は木彫に専念し、西洋美術を積極的に学び、衰退しつつあった木彫に写実主義を取り入れて復活させ、江戸時代までの木彫の伝統を近代につなげる重要な役割を果たしました。
1889年(明治22年)から東京美術学校(現東京芸術大学)に勤務し、翌年に彫刻科教授、同年10月2日に帝室技芸員に任ぜられ、日展の主任審査員などとしても活躍し、1926年(大正15年)に東京美術学校を退職して名誉教授となりました。
光雲の弟子には山崎朝雲、山本瑞雲、米原雲海、関野聖雲など近代日本彫刻を代表する彫刻家が名前を連ねています。
高村光雲の作品
1877年(明治10年)、第一回内国勧業博覧会に「白衣観音」を出品し一等の龍紋賞を受賞。
1893年(明治26年)、シカゴ万国博覧会に「老猿」を出品し絶賛を博する。
1900年(明治33年)には「山霊訶護」をパリ万博に出品。
上野公園の西郷隆盛像、皇居広場の楠木正成像など、現在も人々に親しまれている作品を残しています。