上村松園(うえむら しょうえん)
1875年(明治8年)~1949年(昭和24年)、本名・上村津禰(うえむら つね)。
京都市下京区四条通御幸町の薄茶屋「ちきり屋」の次女として生まれます。
早くから絵画に関心を持ち、小学校を卒業すると14歳で京都府立画学校に入学します。当時女性が絵師として進路を取ることはめずらしく、親戚は反対したものの、母・仲子は、彼女が画学校に入学することに賛成していました。
画家・鈴木松年(すずき しょうねん)の元で学び、1888年(明治21年)には松年が退校するのに合わせ、自身も退学します。その語正式に松年に師事することになります。
1890年(明治23年)第3回内国勧業博覧会に「四季美人図」を出品します。これが初めての展覧会出品作で、当時弱冠15歳の彼女はこの作品で一等褒状を受賞します。この作品の出展にあたり、松年から「松園」という号を与えられました。
その後、幸野媒嶺(こうの ばいれい)や竹内栖鳳(たけうち せいほう)に師事するなど積極的に絵画を学び、数々の展覧会に出品を続けます。
1944年(昭和19年)には帝国技芸員に任命、また、1948年(昭和23年)には戦後女性初の文化勲章を受章しました。
1949年(昭和24年)文化勲章受章の翌年、74歳でその生涯を終えます。
松園の長男である上村松篁(うえむら しょうこう)、その孫である上村淳之(うえむら あつし)も画家です。奈良県登美ヶ丘にある松伯美術館(1994年開館)では、期間によっては松園・松篁・淳之の三代の作品を鑑賞することができます。
上村松園の作風
丁寧に描かれる細密で美しい美人画が特徴で、松園は生涯一貫して女性の姿を描き続けました。女性の絵を描くことについて、「私はたいてい女性の絵ばかり描いている。しかし、女性は美しければよい、という気持ちで描いたことは一度もない。」と語り、「一点の卑俗なこところもなく、清澄な感じのする香り高い珠玉のような絵」を念願としていました。
題材は能などの古典的な作品や、母との関係性を扱ったものが多く、重要文化財に指定されている「序の舞」(1936年/昭和11年)では、能の舞である「序」を演じる令嬢の凛とした立ち姿が描かれており、「私の理想の女性の最高のもの」と松園自ら述べているほどの秀作です。
同じく重要文化財である「母子」(1934年/昭和9年)は、同年に母・仲子が亡くなったことが強く影響を与えており、小さな子供を抱く母の眼差しが印象的です。
「花がたみ」と「焔」
優美な美人画の多い松園の作品の中でも異彩を放つのが「花がたみ」(1915年/大正4年)と「焔」(ほのお/1918年/大正7年)です。
「花がたみ」では謡曲「花筐(はながたみ)」の狂人を演じる照日前を、「焔」では源氏物語に登場する六条御息所の生霊を描いています。
強い情念を抱くそれぞれの女性の姿を鮮烈に描き上げ、ただ美しいだけの美人画、という従来の批判的な解釈を打ち破る重要な作品となりました。
主な作品
「四季美人図」/1890年(明治23年)/第3回内国勧業博覧会/英国殿下買上
「花がたみ」/1915年(大正4年)/第9回文展/松伯美術館蔵
「焔」/1918年(大正7年)/第12回文展/東京国立博物館蔵
「母子」/1934年(昭和9年)/第15回帝展・重要文化財/東京国立近代美術館蔵
「序の舞」/1936年(昭和11年)/文展招待展・重要文化財/東京芸術大学蔵
「晩秋」/1943年(昭和18年)/朝日新聞関西邦画展/大阪市立美術館蔵