永仁の壺 事件
「永仁の壺事件」と呼ばれる古陶器の真贋騒動(1959年)をご存知でしょうか?
「永仁2年」(1294年)の銘をもつ瓶子(へいし=口縁部が細くすぼまる比較的小型の壺)が鎌倉時代の古瀬戸の傑作であるとして、国の重要文化財に指定されました。直後からこの瓶子には贋作の疑惑があり、2年後に重要文化財の指定が解除されました。
この件は単なる指定のミスで終わらず、重要文化財の指定を推薦した文部技官が引責辞任するなど、美術史学や古美術業界、文化財保護行政を巻き込む事件へと発展しました。
結論として、この壺は陶芸家の加藤唐九郎氏の現代の作、すなわち「贋作」であるとされましたが、その後も謎は残されています。
永仁の壺 事件の詳細
お披露目
1943年1月7日(昭和18年-第二次世界大戦中)、愛知県志段味村(現・名古屋市守山区)の出土品として、中部日本新聞にこの壺の存在が初めて紹介され、さらに同年「考古学雑誌7月号」にも紹介されました。また、加藤唐九郎氏が編纂し1954年(昭和29年)に発刊した「陶器辞典」に「永仁の壺」の写真を掲載して解説を執筆し、鎌倉時代の作品であると紹介しました。
重要文化財に指定
1959年(昭和34年)6月27日、「永仁の壺」は鎌倉時代の古瀬戸で、年代も明確な作品として、国の重要文化財に指定されました。指定には国際的な陶磁研究の第一人者と言われ、文部技官・文化財専門審議会委員であった小山富士夫氏の強い推薦がありました。
当時「永仁」銘の瓶子は対で存在していたとされ、内、1つが行方不明であったことから、小山氏はこの「永仁の壺」が海外流出しないように、重要文化財指定を急いだとも言われています。この「永仁の壺」を真作とした根拠の1つに、「永仁の壺」が作られたとされる瀬戸の「松留窯」から、これと同様の陶片が出土していたことでした。しかし、後になって、「松留窯」自体が存在しないものであり、加藤唐九郎氏の捏造であったことが分かりました。
「永仁の壺」の正体
「永仁の壺」は重要文化財指定の直後から、鎌倉時代ではなく現代の作品ではないのかという疑惑がありました。1960年(昭和35年)2月に読売新聞でこの問題が取り上げられ、この騒ぎが多くの人の知るところとなりました。同年8月週刊誌で、加藤唐九郎氏の長男・加藤嶺男氏が「あの壺は自分が作った」と語りました。当時、唐九郎はヨーロッパに渡航していましたが、同年9月23日、今度は唐九郎氏本人が「永仁の壺」は1937年(昭和12年)頃に自分が制作したと言いました。
これらの発言を受けて、文化財保護委員会が「永仁の壺」のエックス線蛍光分析を行った結果、釉薬に含まれる元素の比率が鎌倉時代のものとは異なると分かりました。さらに、位相差顕微鏡による調査で、「永仁の壺」の表面には数百年前の作品に見られるはずの経年変化が認められませんでした。これらのことから、「永仁の壺」を含む3件の重要文化財陶器は1961年(昭和36年)4月10日付けで指定を解除され、文部技官・文化財専門審議会委員の小山富士夫氏は引責辞任しました。
事件以後、小山富士夫氏等が沈黙を守り、その真相についてはなお不明な点があると言われています。
「永仁の壺」と称される「永仁2年」銘の瓶子は1294年ではな、1937年(昭和12年)に作成されたとされ、作者は陶芸家の加藤唐九郎氏とされていますが、長男・加藤嶺男氏、次男・加藤重高氏、弟・加藤武一氏などとする説もあり、製作の目的についても、習作、神社奉納用等と諸説あります。
1961年(昭和36年)4月10日付けで指定解除された重要文化財
【1】古瀬戸瓶子(永仁二年の刻銘がある)
1959年(昭和34年)6月27日重要文化財指定
【2】古瀬戸狛犬(2躯)
1955年(昭和30年)2月2日重要文化財指定
【3】古瀬戸黄釉蓮花唐草文四耳壺
1940年(昭和15年)2月23日重要美術品等認定
1953年(昭和28年)3月31日重要美術品等資格消滅・重要文化財指定
永仁の壺事件のポイント
陶芸界の重鎮「加藤唐九郎」氏と文部技官「小山冨士夫」氏
壺は贋物であり、贋作者は日本陶芸界の重鎮・加藤唐九郎氏。振り回されたのは、壺を国の重要文化財指定に推薦した文部技官の故小山冨士夫氏。この二人が批難の的となったほか、文化財保護委員会の制度とその運営をも疑問視されることになりました。
唐九郎氏が最後に語った真相では、「壺は1937年(昭和12年)に後援者に注文され、国民精神高揚運動のために焼いた。銘文も自分で書いた。美濃陶の源流を研究するために作ったが、いつの間にか古陶として売られた。」と伝えられています。
小山冨士夫氏の行動~誤りの理由
小山冨士夫氏はこの壺に不審な点のあることは分かっていました。そのため、審議会にかける直前にも瀬戸に出向き、古瀬戸や引出黒の贋物造りの名人と言われた加藤宇助氏に面会し、永仁の銘の壺を造ったかどうかを確認しています。
さらに、小山氏が信じる根拠となったのは、根津美術館が所蔵していた「松留窯」出土の数百個の陶片です。それらが鎌倉時代の古瀬戸を鑑定する基準となっていました。「国華」その他の学術雑誌で、松留窯の出土品を紹介したこともあり、陶片と照合すると「永仁の壺」は本物でした。ところが、その「松留窯」自体が架空の古窯跡で、出土陶片とされたものも唐九郎氏が焼いて、「松留窯」から出土したことが分かりました。鑑定の基準となるもの自体が嘘だったのです。
「永仁の壺」が鎌倉末期の古瀬戸と異なる点
- 【1】釉の流れ方が不自然で作意的
- 【2】釉の表面の傷あとや風化のあと等やきものの歴史を示す凸凹がない
- 【3】釉の剥落が作為的
- 【4】年号の表記の仕方が鎌倉時代のものと違う
- 【5】肩の張りや銅のふくらみにアクセントが少ない
「佐野乾山」の真贋騒動~第2の永仁の壺事件
佐野乾山とは、尾形乾山が1737(元文2)年頃、下野国(現在の栃木県)佐野に招かれ、そこで製造した陶器です。
1962(昭和37)年、第2の永仁の壺事件とも言われる佐野乾山(さのけんざん)の真贋騒動がありました。
江戸時代の陶工、尾形乾山の作品には贋物が多く、京焼の陶房のなかには代々乾山ものを焼いてきたところもあり、乾山陶の鑑別は容易ではないとされてきました。この騒動で、一層、乾山鑑定の難しさや古美術鑑定の複雑さと粗雑さも印象づけられてしまいました。
佐野乾山事件は、尾形乾山が晩年に在住した佐野(栃木県)で焼いたとされる200点以上の大量作品が、1959(昭和三十四)年頃から一挙に世に出ました。さらに、裏付け資料となる乾山自筆の「手控」が続いて発見され、その真贋がマスコミなどにも大きく取り上げられました。
これには陶磁の研究者や美術史家ばかりでなく、郷土史家、古美術商、陶芸家、画家、作家、評論家といったさまざまな人達が動員されました。新聞や雑誌には論争が繰り広げられ、テレビでも公開討論会が催され、ついには衆議院の文教委員会にまでもちだされて、第2の永仁の壺事件とも呼ばれました。
永仁の壺事件と異なるところは、佐野乾山事件は大騒動を起こしたにもかかわらず明確な決着がつけられなかった点です。論争の中で、贋作論を主張する人からは、この陶器の作者や「手控」を偽造した人など、犯人としてが名指しされる人もいましたが、これらの人々からも強く反論があり、結論がまとまりませんでした。やがて世間の熱が冷めて、マスコミも取り上げることがなくなり、佐野乾山は総て贋作であるという印象で現在に至っています。