中国骨董の歴史
中国では陶芸の起源が大変古く、長期に渡って極められた造形美、卓絶した伝統技術、豊富な種類と作品は世界随一を誇ります。中国に近い日本や朝鮮、安南(現ベトナム北部~中部)、タイの他、中東、エジプトといった広域で中国陶芸の影響を受け、近世以降、ヨーロッパ諸国も中国の技術や意匠を元に、周辺地域の文化も交わった陶芸を展開しました。英語(特にヨーロッパ)では磁器をChina、仏語ではChineと言い、中国に語源があることが伺えます。
三千五百年前の殷周時代には既に、精巧を極めた青銅器や玉器が造られており、戦国から漢代にかけて意匠を継承する施釉陶器が焼かれ始めました。これらの多くは大規模な墳墓に副葬するもので、緑釉陶が多数出土しています。
豪壮華麗な唐代文明の興隆の中で陶芸もまた飛躍的に発展し、絢爛たる三彩や優れた青磁、白磁、黒釉等が各地で焼かれるようになりました。
青磁は江南の越州窯が最も盛んで、白磁は河北にある邢州窯や定窯が有名です。
中国陶芸の黄金期:宋
宋の時代になると、中国陶芸は黄金時代を迎えます。多くの窯で極度に洗練された技術により傑作と言えるの器がたくさん焼造されました。
華北では白磁の「定窯」の他、多彩な「磁州窯、青磁の「耀州窯」があり、華南には「建窯」「吉州窯」「越州窯」に代って繁栄を極めた「龍泉窯」があります。この頃の竜泉の青磁は、日本で「砧青磁」と呼ばれ珍重されています。また、優美で精巧な青磁を焼造した「修内司窯」と「郊壇窯」の「南宋官窯」、掻き落しと絵高麗でよく知られる「磁州窯」、曜変天目や油滴天目の「建窯」、龍文や梅花文の玳玻(たいひ)天目を焼いた「吉州窯」など、名窯が続々と銘品をつくりました。
景徳鎮の染付と赤絵磁器:元
元代には染付の技法が開発されました。後に続く明代、清代にかけて、景徳鎮の官窯民窯で量産される染付と赤絵磁器が中国陶芸の流行をつくりました。
名釜とされる景徳鎮の技法
景徳鎮窯は、江西省浮梁県の揚子江支流である昌江流域にあります。日本でもよく知られており、中国最大の製陶地として世界的にも有名です。景徳鎮の起源は、漢の時代にまで遡ります。恵まれた原料が豊富で、北宋時代には「影青(いんちん)」とよばれる優れた青白磁を量産して名声を得ました。
現在でも、湖田、揚梅亭、湘湖などの古窯周辺には。青白磁の破片が無数に散乱しており、当時の隆盛を思い出させます。宋代の青白磁は日本、そして東洋各地(イラン、イラク、エジプトなど)にも輸出されていました。 。
明代以降に作風を一変させ、染付や赤絵の磁器を焼くようになります。これら染付、赤絵の流行にともなって、中国の製陶は集約的になり、国内需要の半分以上を景徳鎮で制作するようになりました。
また、ヨーロッパを含む世界の各国に大量の磁器が輸出され、今日見かける中国磁器の多くは景徳鎮で焼かれたものです。最も盛んだった明の嘉靖(かせい:皇帝)、万暦(ばんれき:皇帝)のころは、景徳鎮の人口が50万に達し、御器廠(皇室に納める高級品を生産する官営の窯)だけでも五十八座あったとされています。
景徳鎮の伝統「せみの羽のごとく薄く、玉のごとく白く」といわれてきた精巧な製品は、いまだ尽きぬ原料、徹底した分業による量産により、現在でも時代を超えてひきつがれています。
宝船
中国陶磁に関する、切なく華々しい、そして今も人々を悩ませるお話があります。
1976年に韓国の新安沖に沈む難破船から、時価何億円、何十億円とも云われる大量の焼きものが引き揚げられました。
600年以上(元の時代にあたる十四世紀中葉からその後半期に至る或る時期)前、中国から朝鮮半島沿いに航行し、日本の博多から平戸に向う予定の貿易船がありました。船の国籍は中国。陶磁器が大量に積み込まれています。
この船は、揚子江河口を出帆して日本の九州に向う途中で海難に遭遇し、朝鮮半島西南端の内海に待避中に破船して沈没しました…
と推測されています。
船は船首と船尾が欠けており、正確な規模は解りませんが、残されていた左舷20m、右舷21m、船幅10m余りの胴体から、当時としてはかなりの大型船であったと予想されています。
船倉には杉材で造られた50、60cm四方の木の箱が積まれ、中には茶碗や皿、漆器、扇子仏像などが10個単位に縄でくくられていました。木箱は現在の貨物コンテナを思わせ、大変効率よく船積みされていました。
これまで引き揚げられたものは、元代の龍泉窯の青磁が主で約4,000点、景徳鎮の白磁類が約3,000点、河南天目など他のやきものが約1,000点と、総数にして8,000点以上もあります。その他、青銅器類や銀器類、漆器類、石製の工芸品、胡椒などの香辛料、唐代の「開元通宝」(鋳造年代713~741)から元代の「至元通宝」(1335~1340)まで、唐・宋・元の各時代の古銭が十万枚も積まれていました。
積荷の殆どが日本人が好むもので、実際に日本に伝わっている中国遺物と同種同形のものがたくさんあります。このことから日本向けの船と判断されましたが、なかには高麗の青磁や、フィリピンやインドネシアでよく発掘される牛の形をした中国製の水滴なども含まれることから、中国から朝鮮、日本経由し、東南アジア方面を回る長い航路の交易船であったとも考えられています。
一隻の沈没船が論争に…
これほど多様で大量の美術品や歴史的資料が一括して発見されることはめったにありません。この一隻の沈没船は「今世紀最大の海底発見」「壮大なスケールの海底ドラマ」として報道されたことにより、中世東洋における交易の実態が具体的に知られ、多くの面でかけがえのない貴重な史料とされました。
ところが…
陶磁史上の通説をくつがえす多くの問題点を提起することになってしまいました。
染付磁器(青華)がない?
論点のひとつは、この多種多量の陶磁の中に染付磁器(青華)が一点もないことでした。
イギリスの中国陶磁研究家であるL・ボブソン氏や、中国陶磁のコレクターとして世界的に名高いデーヴィッド卿により、それまで明代とされていた染付の始源が元代に引き上げられたのは1930年のことです。
元の時代は続く明時代初期とともに、最も優れた作品を生み出した「染付の最盛期」とされ、多くの名品が元時代のものとされるようになりました。数年前には、その始源を宋時代とする説がでて話題をよび(A・ホープ氏ら)、更に唐時代まで引き上げる論文も中国で発表されています(「文物」1977年第9期)。
唐(618年-907年)
宋(960年-1279年)
元(1271年-1368年)
明(1368年-1644年)
染付の始源は年々古い時代とされていったにもかかわらず、積み荷の中に染付が全く無いということが注目されました。 沈没船の積荷のすべてが引き揚げられたわけではないため、断定はできないものの、染付が一般的に使用されていなかったことが指摘されるようになります。
韓国のジレンマと期待
この発見で韓国は世界有数の中国陶磁コレクションを持ちました。ソウル市の国立中央博物館に所蔵されてる中国陶磁は1600点であることからも圧倒的な数です。同館が臨時に保管していましたが、これらのコレクションを一般に公開するために、光州市に美術館が新設されて移管されました。
引き揚げ作業は今後も続けられる予定ですが、積荷を全てあげようとすると、貴重な遺物である船体が浮き上がって流されてしまう可能性が高くなります。また、船体を部分的に切り取って引き上げると、残された商品が流されてしまうかもしれません。
この沈没船は、世界の遺跡や遺物の発見のように、偶然や噂、伝承から発見されました。直接には1976年1月、地元漁師の網に一個の花瓶がからまっていたことですが、これまでも貴重なものが引き揚げられることがあったそうで、新安沖の海底の泥の中には「宝船」が沈んでいると言われていたそうです。
蛸が抱える青磁の茶碗
日本にも海から揚がる青磁があるのをご存じでしょうか。
これまで、和歌山県の紀淡海峡に浮かぶ友ヶ島付近の海底から多くの宋・元時代の青磁が引き揚げられています。
昔、海峡を通って堺港に向う船が沈没し、積荷の青磁が、官器のまま海底の泥の中に長く沈んでいることが分かっています。ここは蛸の名所でもあり、数年前までは釣り上げた蛸が、青磁の茶碗を抱えていることが度々あったといわれています。(最近ではめったに揚がらないそうです。)
中国でも秦・始皇帝陵発掘など、陶磁史上の貴重な発見がありますが、アジアの海や土中には膨大な古陶磁が埋蔵されていることが期待されています。
中国陶磁の贋作
中国古陶磁は世界の古美術市場の主流でもあり、愛好も極めて多いため、各時代各窯の各々に贋作があるといわれるほど贋作も大変多く出回っています。
特に唐三彩、磁州窯、鈞窯、龍泉窯の青磁、景徳鎮窯の染付、赤絵などの贋作が多く見られます。贋作がつくられるのは中国、台湾、フィリピンなどですが、残念ながら日本でもつくられています。日本では龍泉窯青磁、景徳鎮の嘉靖や万暦の赤絵、呉須赤絵などです。贋作は色調、胎土など作風に大きな違いもあり、精巧なものから一目で贋作と分かるものもあります。
贋作が多く出回っているのは東南アジアです。特に台湾では故宮博物院にある名陶がひと通り揃っていて、鈞窯、磁州窯、天目茶碗などの贋作を持ち帰る日本人も多くいます。
フィリピンやタイの古美術店では竜泉窯の青磁、元や明の景徳鎮染付の贋作がたくさん見られますが、中国古陶磁は世界的に流通する人気を持っているため、標準的な価値より不当に安価なものや、通常は出回らないと考えられるものは疑いつつ、しっかりと調べてから購入することをおすすめします。