千家・茶碗買取

千家(せんけ)とは千利休を祖とする茶道流派のことです。千家の祖であり、茶の文化を世に広めた茶人・千利休から三千家への繋がりを紐解きます。

千家について

千家(せんけ)とは千利休を祖とする茶道流派のことです。
利休の死後、息子の千道安(せんのどうあん)が本家の堺千家を継ぎましたが、後に断絶。
利休の娘婿である千少庵(せんのしょうあん)の子、千宗旦(せんのそうたん)の三人の息子たちが三千家(表千家・裏千家・武者小路千家)を作り現在に至ります。

千利休(せんのりきゅう)という人

千利休という名を聞くと多くの人達は「茶人」、「お茶の人」、「豊臣秀吉」という言葉が浮かぶと思います。
どれも該当しますが、やはり茶の文化を広めた功績は大きいでしょう。

千利休(1522-91)は大阪堺で商人の子として生まれ育ちました。茶の湯は商人の教養の一環として親しみます。
17歳で茶匠・北向道陳(きたむきどうちん)に学び、その後堺の豪商であり茶人の武野紹鴎(たけのじょうおう/1502-55)に師事します。利休の茶の精神はこの武野紹鴎と彼の心の師で侘茶の祖・村田珠光(むらたじゅこう/1423-1502)からきています。

珠光は儀式的な形より、茶と向き合う心の道を重視し、茶室は広間から小間(四畳半より狭い部屋)に縮小するなど心の落ち着きを求めました。また「不足の美」という、不完全だからこそ美しいという考えを説きます。
その考えを武野紹鴎は禅思想で採り込み、高価な器より日用雑器を茶会に用いるなど茶の湯の簡素化、侘びを求めました。

利休は師の教えを受継ぎ、茶碗は高価な海外ものから国内のもの(樂茶碗)などにしたり、茶道具以外では掛物や点前の作法、茶室全体にまで「侘び」を広げていきました。こうして無駄を極限まで削り、緊張感を生み出した侘茶を利休は完成させたのです。

利休は69年の生涯で2人の天下人に仕えています。
一人は織田信長です。 信長は当時貿易で栄え、文化の発信地であった利休の出身地・堺に目を付け直轄地とします。そして堺との繋がりをより強化するため、堺の豪商で茶人の今井宗久(そうきゅう)、津田宗及(そうぎゅう)とともに重用されます。

信長は茶の湯に励み自身主催の茶会を催し利休も活躍します。家臣の間でも茶道具を持つことはステータス化し、利休にも一目置くものが出てきました。 利休が仕えたもう一人の天下人は、信長より茶の湯に熱心であった豊臣秀吉です。
利休は信長没後から秀吉に仕え、側近にまで登り詰めます。利休が侘茶を完成させたのはこの時代になります。

彼は自身の好みの茶道具を作ります。特に茶碗は樂焼の陶工・樂長次郎に轆轤を使用しない、手びねりの茶碗、「樂茶碗」を造らせます。また現存する国宝の茶室「待庵」を作り、有名な大茶会・北野大茶湯を演出しました。そして「利休」という号を天皇から賜ります。このようにして利休の名は全国的に知れ渡りました。

豊臣秀吉と利休によって世は茶の湯ブームになりましたが、やがて陰りが見え始めます。理由は諸説ありますが、秀吉の逆鱗に触れた利休は最終的に切腹を言い渡されます。
茶を中心とした文化の発展に大いに貢献した千利休。その末路は切腹によりあっけなく終わってしまいましたが、彼の精神は弟子の古田織部などにより受け継がれていきました。

利休の家族~そして三千家へ

千利休は生涯2人の妻と12人の子をもうけたと言われています。

先妻・宝心妙樹(ほうしんみょうじゅ/お稲)との間には堺千家を継いだ千道安がいます。
道安は義弟(後妻の子)千少庵とともに豊臣秀吉の茶頭として仕えました。
才のある茶人として高く評価されますが、利休の死後は蟄居(ちっきょ)となります。後に赦され、堺に戻り家督を継ぎ堺千家を再興しますが、後継ぎに恵まれず断絶しました。

先妻と死別した利休は後妻である、宗恩(そうおん/おりき)を妻に迎えます。2人の子は夭折しており、子供は宗恩の連れ子、千少庵だけでした。
少庵は利休が妻以外の女性との間に設けた子の婿養子になります。利休はこのような境遇の子を他に何人か残しています。少庵は利休を茶の湯の師とし、邁進していきました。剛(動)の道安と言われた千道安とは反対に柔(静)の少庵と評されます。

少庵には子がおり、その子が千宗旦です。宗旦は祖父利休の死後、蟄居(ちっきょ)になっていた父少庵が赦(ゆる)されてから千家の復興、侘茶の普及に努めます。彼には4人の男子がいましたが、そのうちの3人が現在も続く「三千家」となるのです。

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